食べられなくなった時の選択


高齢の方がいよいよ最期が近づいた時に、痰が多くて吸引しなければならないことが良くあります。
どろっとした黄色い痰が気管に詰まっている事もありますし、さらさらの透明なものが口の中から喉にかけて溢れていることもあります。
いずれにしても、鼻や口から管を入れて、溜まった痰を吸引して取り除く必要があります。そうしないと呼吸が出来なくなってしまうからです。
しかし、この吸引とは本人にとって、とても辛いことです。

fork on road

今日は、「痰」に関連して、最期をどのように過ごしたいかについてのお話しです。

頻回吸引が必要であれば家では無理

吸引の手技は、それほど難しいことではありません。ご家族でも何回か練習すれば、ある程度出来るようになります。
それでも、苦しがっている本人を押さえ、気管の奥まで吸引することは困難です。
医師や訪問看護師が伺った時には吸引できますが、一日に何回も吸引が必要になれば、その都度赴くにも限界があります。
このような訳で、痰が多くて吸引が一日何回も必要な状態であれば、家で過ごすことは不可能になります。

「最期は家に帰りたい」「帰らせたい」と思っていても、叶わない理由の一つです。

痰を減らすには

痰は、体の中で処理できる水分よりも多い水分が、体内に入ることによって多くなります。
人の体は上手く出来ていて、もう体内で水分が処理できなくなると、口からは摂れなくなります。そして、徐々に乾燥してゆき、枯れるように亡くなります。これが「自然の死」です。
ところが、現在は点滴や胃ろうによって、口から摂れなくても、外から栄養や水分を摂ることができます。
処理できなくなった「水分」は行き場を失って、体の中にどんどん溜まって行きます。胸やお腹に溜まれば、「胸水」や「腹水」となります。手足に溜まれば、「浮腫み」となって現れます。唾液になって、気管や口腔内で溢れれば、「痰」となります。

最期を楽に過ごしたいのであれば、枯れる方がよい

「点滴や胃ろうによる水分栄養補給を行うかどうか」は、良い悪いの問題ではありません。「どのような最期を迎えたいか」という選択の問題です。
点滴や胃ろうを行うことによって、命は長らえることができます。「1分1秒でも長く、生きてゆきたい」と願うのであれば選択すべきです。
ところが、「苦しまず楽に、最期を家で迎えたい」となれば、これらを選択すると困難になります。何もせず枯れるような経過であれば、苦痛もなく、家で最期を過ごせます。

最期をどう過ごしたいですか?

私たち在宅医は早い段階から「食べられなくなったらどうしてほしいですか?」と、必ず確認します。それは、本人や家族にとって、後悔の残らない最期を迎えて欲しいからです。

あなたは食べられなくなったらどうして欲しいですか?

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